お客様の声

名前
H/Mさん(プレミオ)
「ヘッドライトクリーニングをやってもらいましたが、予想通り・・いや予想以上にキレイになり、大変喜んでおります。 おかげでビールが美味しい! もう一度カンパ~イ・・
あれ、仕事中でしたか?」
(いえ、おつきあいします)

名前
Y・Uさん(スティングレー)
「何度も往復してもらって、すみませんでした。あんなにヒドかったのに、わからなくなって嬉しいです。これで事故の瞬間をあまり思い出さずに済みそう・・」
(しばらくはトラウマになるかもですね)

名前
K・Hさん(フィット)
「わからなくなるもんですね~さすがです。またお願い・・ いや、もう来ないようにしないと・・汗」
(ヤラれることもあるんで、そのときは堂々と・・)

名前
J・Kさん(シエンタ)
ディーラーで見積もりしたら20万って言われて・・数日はヘコんでました。 こちらでお願いしたら半分でやってもらえました。
交換するところを叩いてもらったんですって。やっぱり技術ですよね~。」
(僕が払う立場になっても、あの見積もり金額はアゴが外れました。)
お客様の声が、当社の成長に不可欠でした。
創業当時を回顧し、先代社長が語る。

昭和46年(1971年)の創業当時、初代社長の父とふたりだけで会社を始めました。
前に、父と一緒に勤めていた鈑金工場では、ろくに塗装も習うことなく、そこの工場長の、親子でさっさと始めろ!」この一声で追い出され?移住して来て間もない、頼る人もいないこの地に、やっとの思いで土地を手に入れ、自前で作った工場を構え、右も左もわからないまま、ヒッソリと始めたのでした。
さいわい、値打ちな鈑金屋を探している人たちの目に止まり、そこそこ仕事は入るようにはなりました。
この地域の人々は、親戚だ知り合いだという、いわゆるツテを優先するのではなく、「腕がよければ、値打ちならば」仕事をくださいます。 それこそが、創業当時の仕事が欲しい時期に、大変良い影響を与えてくれたのです。
しかし、お客は正直です。 出来が悪ければ、それこそ容赦ない「叱咤」が飛んできました。その場はグッとこらえても、後で自然に涙がこぼれることも度々・・。
会社に勤めていたら聞けなかった、お客さんの直接の声・・それがあったからこそ、性根が座ったのを覚えています。
「後には引けない、全ては自分が受け止めるのだ」と。
お客さんの喜ぶ顔が見たい
この仕事を選んで良かったと思える最大のことは?・・・

なにより、お客さんの笑顔を見ることができること。
車をお渡しする際、「キレイになった」とか「わからなくなったね」と言われた時の嬉しさ・・。 苦労して鈑金し、一生懸命パテ研ぎをし、色あわせをして塗装。入念に仕上げをして完了の連絡。そして、お金をいただく際にかけられる言葉です。
そうした「お褒めの言葉」の数々が、会社を続けていく自信と勇気、そしてこの仕事のやりがいを自分に与えてくれたのだと思います。
この仕事は、同じ作業内容であっても、一台一台が微妙に違います。 なにより、同じカラー番号であっても、生産時期が違ったり、生産工場が違えば色が違います。
「え?」とお思いでしょうが、配合が微妙に違ったり、塗料を納入するメーカーが違う場合だってあります。
また、経時変化による退色や褪せなども、色合わせ時には対応が求められます。新車時と、たとえば4年経った車とでは、同じ色番号でも違いが出てくるのです。
逆に、そうした変化も、楽しみのひとつと言えば言えるでしょうか。であるからこそ、高い技術報酬がいただけるわけでもあります。
51年の歳月
いろんなことがありましたが・・

最近見えた古くからのお客さんが、 「僕は女房よりも丸豊さんとの付き合いのほうが長いよ。今朝、出掛けに女房にそう言ったら、本当だねって笑ってたよ(大笑)」
聞けば、定年になってリタイアしたばかりとか。 最初にウチに見えた時はまだ若かった・・・いや、みんな若かった。 そんな、草創期からのお客さんが来ると、たいてい話に花が咲いて、仕事そっちのけで長話になってしまいます(笑)
思い返せば、知立の地で22年、岡崎に来て30年になろうとしています。ふと気づくと、もう岡崎のほうが、はるかに長いんだ、と。
始めた頃は、やたらと時が経つのが遅かった・・ それこそ始めて1~2年は、連日のように夜遅くまでやったり、年間にほとんど休みがなかったりで、父母と三人で頑張りました。
全ての財産を処分し、背水の覚悟でこちらにやってきた父は、 「故郷で世話になった人に頼んで創業資金の一部の借り入れができた。命を懸けてでも返さんといかん」 これが父の頑張りの原動力になっていたことは確かでしょう。(その親父も’19年に亡くなってしまいましたが)
’18年に亡くなった母は、寝るのが夜中の2時とか3時になることも。厳しい夫の元で「寝る時が一番幸せ」が口癖でした。
ダンプを駆る勢いのいい土建屋のオジサンが、 「やいオヤジ! これを今日中に溶接して治しとけ!」と、夕方近くにやってきておっしゃいます。
やらねばならんのです。でなければ、彼は翌日仕事にならなかった。 「お客さんのニーズがあれば応えたい、応えなければならない」そういう使命感みたいなものが、草創期には強くありましたね。
ある時は、冬の夜中に現場まで「酸素&アセチレン」を持って行って、ダンプのアオリ、その他を治したこともありましたっけ・・。 あの時、普通なら無理難題ともいえるような注文でも引き受けていたからこそ、今があると思っています。
なんといっても、我々の仕事は「サービス業」なのですから。
一番辛かったこと・・・社屋の二階に寝泊りしていた頃ですかね。 冬は雪が降れば、なんと枕元に雪が舞い降りてくるような、外気とツーツーの部屋でした。さすがに今、これを若い者達に話すと、笑い話になってしまいますが。
そうした時期を乗り越えてきたからこそ、今の丸豊鈑金があるのだと自負しております。